パワプロ2020オーペナ(93)25年目オフシーズン(その他)
25年目(2044年度)オフシーズンのその他です。
殿堂入り
シーズン前に今季限りで引退した馬渕と荻原が野球殿堂入りを果たしたというニュースが入ってきた。
荻原は2022年度のドラフト4位でエンゼルズに入団した。
入団時から高校No.1投手との呼び声が高く、すでに完成されたような能力だった。
ちなみに同期入団のドラフト1位の米原は、のちに出でくる谷岡とはし烈な正二塁手争いを繰り広げた選手だ。ドラフト10位には、のちの球界のエースにまで上り詰める現エース堀井(41)の名前もある。荻原は将来のエース候補として期待された。
1年目から4年目までは主に中継ぎや谷間の先発な祖をこなしながら、着実に成長していった。そして、5年目の2027年から本格的に先発を任されると、9年連続2桁勝利を挙げるなど怒涛の活躍を見せた。
そして、2029年シーズンに海外留学に派遣されると、基礎能力を大きく向上させパワーアップして帰ってきた。
入団時からみても一回りも二回りも大きくなり、チームのエース格までに成長を遂げた。
そして2031年には自身初の最多勝、最高勝率のタイトルを獲得しベストナインにも選出され、エンゼルズでの絶頂期を迎えた。
日本シリーズでは、優勝のかかるマウンドを任され、
有原選手との投げ合いに制し見事胴上げ投手となった。
そして、自身初となるベストナインにも選出された。
しかし、選手としても全盛期を迎えていた荻原だったが、翌年2032年シーズン途中転機が訪れる。
なんと、トレードによりソフトバンクに移籍することが決まったのだ。
ソフトバンクでは1年間のみのプレーだったものの、しっかりと存在感を示した。
よく2033年にはFA宣言をし、中日に在籍。在籍1年目には最多奪三振のタイトルを獲得し中日在籍4年間で3度の二けた勝利を挙げた。
そして、2037年にはオリックスに移籍し、ここでもチームのエース格として活躍をした。
そして2041年のオフにオリックスから戦力外通告を受けると、古巣エンゼルズへの電撃復帰となった。主に後輩の育成というコーチ的な役割だったため、出場機会こそ少なかったものの、通算172勝は立派な成績だった。
荻原は引退会見で、
「本当に楽しいプロ野球人生でした。移籍した時の夢はエンゼルズと日本シリーズで戦うことでしたが、それはかないませんでした。でも今こうやって最後にエンゼルズのユニフォームを着てプロ野球人生を終えることができて本当に幸せでした」
本当にお疲れさまでした。
もう一人殿堂入りを果たした選手がいる。
言わずもがな、皆さんお待ちかね、史上3人目の3000本安打を達成した馬渕だ。
2023年のドラフト2位でエンゼルズに入団した。
九州の怪物と称され当時の大学No.1スラッガーの呼び声高い選手だった。この当時のエンゼルズは大砲不足と騒がれ、チームも万年最下位で、スラッガー候補の獲得をしていたものの、これといってパッとしなかった。その中で間違いない選手だと評価が高かったのがこの馬渕であった。
同期入団には現監督の海老澤や、エンゼルズ初のメジャーリーガーの谷岡などといったのちに球界に名を残す選手たちが勢ぞろいだった。
ルーキーイヤーからエンゼルズの第7代目4番打者に抜擢されると、その年の新人王を獲得し、これから馬渕がチームを引っ張っていくのだろうと誰もが予想した。
2年目に27本塁打を放ちスラッガーへの道を走り始めたかに思われたが、翌2026年は海外留学の影響でシーズン合流が遅れたこともあり13本塁打にとどまった。
しかし、能力を見てもらえればわかるが、もうすでに一流のバッターへと成長を遂げていた。
2027年に自身初の3割30本100打点をマークし初の打点王に輝く。ここから勢いに乗れるかと思われたが、翌年2028年は21本と中距離バッターのような成績に終わってしまう。しかしここから馬渕が覚醒をする。2029年には球団初の40本塁打で自身初の本塁打王のタイトルを獲得、2032年にはこれまた球団初の50本塁打を達成し、本塁打と打点の二冠王に輝いた。
その後も安定した成績を収めて、2034年~2039年まで6年連続で3割30本100打点を達成した。
2034年から4番を平井に任せることによって、安定した打撃を獲得することができた。
のちにインタビューで馬渕はこう語っている。
「最初4番を外されたときは、なにくそって思いましたけど、平井のバッティングを見たら、これはかなわないなっていい意味で肩の荷が下りたんですよ。常勝チームとなったエンゼルズの4番は打たないとバッシングがすごいですからね。これまでそういう重圧に耐え続けてきて、一時期自分のバッティングを見失いかけたんですが、当時の監督から、好きに打てと言われて3番に入ったことは、今になって思うとよかったなって思います」
39歳で迎えた2040年シーズン。ここで3割30本100打点の連続達成が途切れてしまう。
かつてのように軽々とスタンドを超える打球を放てなくなってきた馬渕はここで自身の引退を考え始めたという。
そして、再起をかけて挑んだ2041年シーズン。彼に待ち受けていたのは極度の打撃不振であった。
5月にスランプに陥り、初の2軍落ち。その後約2か月間ファームで若手選手らと汗を流した。
そして、3番に復帰し最終的に111試合の出場を果たしたものの、本塁打、打点ともに入団1年目以来最低の成績でシーズンを終えることとなった。40代でのベストナインという夢にも届かなかった。
その後は、若手の台頭もあり、出場機会を減らしていった馬渕であったが、現役最終年の今年についに偉業を達成する。
レジェンド池谷と世界の安打製造機、張本勲氏に次ぐ史上3人目の3000本安打達成である。先日3000本安打のインタビューをお伝えしたので、ここでは割愛させていただくが、これは球史に残る出来事だった。
本塁打王3回、打点王4回、ベストナイン11回、MVP3回とエンゼルズを常勝軍団たらしめたのはこの馬渕がいてからこそだっただろう。この選手がいなければエンゼルズの優勝はもっと先の出来事だっただろうし、彼にはほかの選手たちを巻き込む力を持っている。令和の三冠王梅村やエンゼルズ現4番の平井も馬渕の野球に対する姿勢を見習い、まねてきた。そして何より野球人として馬渕を慕っていた。馬渕のそういう人柄が彼らがレジェンドの階段を上り続けている証なのだろう。
通算本塁打568本は元ダイエーの門田氏を抜いて、歴代6位の記録だ。
打点は1897打点で、歴代4位。それ以外でも歴代トップクラスの選手だった。
21年間大きなけがもなくここまで走り続けた馬渕は引退して少し休みたい気持ちもあると思うが、来季からは2軍の打撃コーチとしてエンゼルズの若手の育成に勤しむ。
本当に荻原選手、馬渕選手、長い間お疲れさまでした‼
以上、次回は25年目シーズン開幕前のWBCです。